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​八重山について

ヤエヤマオオコウモリ

ヤエヤマオオコウモリです\ 

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■石垣島とは

 石垣島は、東京から約2,000km、沖縄県から約400km南西に離れた人口5万人の島です。青く澄んだ海と空、年中温暖な亜熱帯海洋性気候、沖縄島とはまた違った独自の伝統文化が特徴で、国内外からも人気の観光地として知られています。周辺には西表島、竹富島、小浜島、黒島、鳩間島、新城島、由布島、日本最南端の波照間島、日本最西端の与那国島があり、石垣島を含めたこれらの島々は八重山諸島と呼ばれます。石垣島は八重山諸島で最大の行政・経済規模を有しており、他島々へアクセスするための玄関口でもあります。

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機窓から見える石垣島

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​石垣港離島ターミナル

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軟骨ソーキそばです\

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■伝統文化が人々の生活に深く根付く島

 

 八重山では、古くから伝わる祭祀儀礼が旧暦の日取りで行われます。各村が五穀豊穣に感謝し、それぞれの御嶽(拝所)で奉納芸能を行う「豊年祭」では、旗頭や太鼓、綱引きなどが催され、多くの島民たちで賑わいます。八重山の旧盆では、村の青年会などが仮装して一般家庭を回り、笠と面で顔を覆った男女の精霊が頓智問答や舞踊で祖先の霊を慰めます。このほかにも、多くの年中行事が各地で催されています。

 

​ 地域の祭祀行事や暮らしで培われてきた八重山民謡、古謡などが島の人々の「唄の心」を育んできました。石垣島は地元に愛されるミュージシャンやオリジナルバンドが盛んに活動する芸能と音楽の島です。八重山の高校では郷土芸能部が精力的に活動しており、全国でも数々の賞を受賞する名門校です。

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島の高校生と島内外のプロのアーティストが

共演したReverb Fest

©2019 Reverb Fest

豊年祭の旗頭

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■豊かな自然に希少生物が生息する島

 

 県内最高峰の於茂登岳とマングローブなどの深い緑や、日本最大のサンゴ礁(石西礁湖)など、自然環境に恵まれた八重山。大陸からの影響を受けない島嶼性は、多くの希少な固有種を生み出しています。国の特別天然記念物「カンムリワシ」や絶滅の危機にある「イリオモテヤマネコ」などが有名です。また、石垣島の白保村では旧石器時代の日本最古の化石人骨が発見され、2019年に国の史跡にも指定されました。これは、日本人のルーツを知ることがきる重要な遺跡です。

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野底マーペーからの景色

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景勝地として有名な川平湾

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電線に止まるカンムリワシ

初夏に開花する 一夜だけ咲くサガリバナ

ヤエヤマオオコウモリ

■八重山の歴史

 

 八重山は沖縄島を中心とした琉球王国とはまた違った歴史を歩んできました。八重山が琉球の歴史に初めて登場するのは1390(元中7)年の入貢からと記録にあります。1500(明応9)年頃までは各地の豪族がそれぞれの地域を治めていました。

それまでは各地の豪族が地域を治めていました。

 1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は江戸幕府を開きます。島津家薩摩藩はこれに敗れたものの、家康の許可を得て1609年に琉球に侵攻し尚寧王を捕虜にしました。その後、琉球は薩摩に年貢を納めなければならず、八重山にも薩摩の役人が検地に訪れてそれまでよりも重税が課されるようになりました。

 長く続いた徳川幕府も終焉し、1871(明治4)年に明治天皇を中心とする政府が日本本土で廃藩置県を実施しました。一方、琉球藩はひと足遅れた1879(明治12)年に廃止され、沖縄県が設置されました。しかし、八重山と宮古はその後も中国(清国)との交渉材料に使われたという特異な歴史を有しています。その後、太平洋戦争での日本の敗戦を受けて沖縄は米国の統治下に入りました。そして1972(昭和47)年に沖縄とともに八重山も日本復帰を果たすことになります。

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サンゴアブラギリと赤瓦の民家

現在の703交差点付近

なぜ730(ナナサンマル)なの?…
1972年の日本復帰から6年後、1978年7月30日に

県内全域で車を左側通行に戻したことに由来します

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\読んでくれてみーふぁいゆー

文・宮良麻奈美

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