八重山について
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/軟骨ソーキそばです\
■伝統文化が人々の生活に深く根付く島
八重山では、古くから伝わる祭祀儀礼が旧暦の日取りで行われます。各村が五穀豊穣に感謝し、それぞれの御嶽(拝所)で奉納芸能を行う「豊年祭」では、旗頭や太鼓、綱引きなどが催され、多くの島民たちで賑わいます。八重山の旧盆では、村の青年会などが仮装して一般家庭を回り、笠と面で顔を覆った男女の精霊が頓智問答や舞踊で祖先の霊を慰めます。このほかにも、多くの年中行事が各地で催されています。
地域の祭祀行事や暮らしで培われてきた八重山民謡、古謡などが島の人々の「唄の心」を育んできました。石垣島は地元に愛されるミュージシャンやオリジナルバンドが盛んに活動する芸能と音楽の島です。八重山の高校では郷土芸能部が精力的に活動しており、全国でも数々の賞を受賞する名門校です。
豊年祭の旗頭
■八重山の歴史
八重山は沖縄島を中心とした琉球王国とはまた違った歴史を歩んできました。八重山が琉球の歴史に初めて登場するのは1390(元中7)年の入貢からと記録にあります。1500(明応9)年頃までは各地の豪族がそれぞれの地域を治めていました。
それまでは各地の豪族が地域を治めていました。
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は江戸幕府を開きます。島津家薩摩藩はこれに敗れたものの、家康の許可を得て1609年に琉球に侵攻し尚寧王を捕虜にしました。その後、琉球は薩摩に年貢を納めなければならず、八重山にも薩摩の役人が検地に訪れてそれまでよりも重税が課されるようになりました。
長く続いた徳川幕府も終焉し、1871(明治4)年に明治天皇を中心とする政府が日本本土で廃藩置県を実施しました。一方、琉球藩はひと足遅れた1879(明治12)年に廃止され、沖縄県が設置されました。しかし、八重山と宮古はその後も中国(清国)との交渉材料に使われたという特異な歴史を有しています。その後、太平洋戦争での日本の敗戦を受けて沖縄は米国の統治下に入りました。そして1972(昭和47)年に沖縄とともに八重山も日本復帰を果たすことになります。
サンゴアブラギリと赤瓦の民家
現在の703交差点付近
なぜ730(ナナサンマル)なの?…
1972年の日本復帰から6年後、1978年7月30日に
県内全域で車を左側通行に戻したことに由来します
\読んでくれてみーふぁいゆー/
文・宮良麻奈美